忖度しない、がつきの記録

3年目の社会人が就活・不動産業界・web・ブログ論について語ります。

父親という独特なロールモデル

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就職活動を進めていけばいくほど

起業という言葉に敏感になりました。

 

誰かに従属することなく

自分の思ったことを実現し、

それで対価をもらい生計を立てる。

 

ゆくゆくは東京などの大都市、

もしくは大阪や福岡などの地方都市にも

ビジネスを発展させていく。

 

仕事が終われば豪華なディナーと

業界の著名人たちとのパーティに繰り出し、

人脈を広げていく。

 

それが私の起業家のイメージでした。

 

今日は昨日からの大雪で気遣ってラインをくれる

家族のことについて書こうと思います。

 

 

■私の家族

そんな私には一番身近で起業している人がいました。

父です。

 

愛媛で生まれた父は大学で香川にきて

今の母と出会いそのまま結婚しました。

 

父は香川の白鳥町(現:東かがわ市)という田舎の手袋の中小企業に

母は香川では優良企業とされている建設関係の企業に

就職しました。

 

時代が時代だったので

母は私を産んですぐに仕事を辞めました。

 

また母は糖尿病にかかっており、

食習慣にも気を遣わなければならず、

そんなこんなで

専業主婦として生きていくのを覚悟していました。

 

一方の父は、

母が私を出産してからも

精力的に仕事をしていました。

 

今ではグローバル化やボーダーレス化は

当たり前とされていますが、

この当時(20年前)はその言葉が出てき始めたぐらいでしょう。

 

ドイツやタイ、中国など何か国も世界中を周り、

企業のために身を粉にしてきました。

 

結果的に父は40を手前に

役員クラスまで上り詰め、

企業経営のかじ取りを任されるぐらいになりました。

 

しかし、

家族にはさらなる重しがのしかかります。

 

私が小5のころ

母が多発性硬化症という難病にかかってしまいました。

 

多発性硬化症とは、

脳の一部に異常ができ、

めまいや体の一部に麻痺が残る病気です。

 

決して命を落とすような病気ではありませんが、

最悪一生車いす生活になる人もいるらしいです。

 

なにより、

この病気は改善法が見つかっておらず、

薬や安静な生活によって耐えていくしかないのです。

 

母は幸いにも

右半身の麻痺とたまにめまいがするぐらいで

最近は元気に生活しています。

 

以前まで海外でもバリバリ仕事をしていた父は

国内での仕事に専念するようになり、

母の看病、私の養育と

大変な日々を過ごしていったと思います。

 

このとき学んだことは

数多くて把握しきれません。

しかし、

母も一時ですが入院生活をして

自分も家事や家のことをしっかり手伝うようになりました。

 

この病気は治ることはありませんが、

年々老化とともに

症状が緩和していく病気で

本当に今は元気に生活しています。

 

 

■大学1年の時に起きた衝撃

大学受験を終えて、

私は香川から大分に来ることになりました。

 

お金や生活のことは

近所や身内の方も手伝っていただき、

私が大分に来てからも

変わることなく元気にやっています。

 

しかし、

1つだけ大きく変化したことがありました。

 

それは私が夏休みに実家に帰ってきたときに

父親から

「あ、ゆうてなかったけど、仕事辞めたんよ」

 

このときばかりは言葉を失いました。

いやいやどうすんの。てか何でやめたんと。

 

要約すると、

辞めた理由

→父が経理をしていた時から、社長が企業の利益を多くポケットマネーにしており、

 それが常習化していた。

→定年を迎えたのに、社長は辞めないため、会社に将来性が見いだせなくなっていた。

これからの行動

→転職活動はしてみるが、香川の片田舎で50近くで雇ってくれるところはなさそうだ。

→手袋を作るのは一人前だが、それ以外はあまり大したことはできない

→自分で事業を起こすしかない

 

当時、19だった自分には衝撃でした。

50を超えて起業なんてリスクが高すぎるし、

うまくいかなかったらどうするつもりなんだと。

 

しかし、

自分があーだこうだ言っても

父は意見を曲げないし、

そういう人だとわかっていたので、

応援することにしました。

 

 

■起業している人を見て分かったこと

正直、最初の2年は本当にきつそうでした。

 

製品の質が良くても、

景気の動向で商品が売れない。

 

またほぼ零細に近い企業なので、

取引先も父が前の会社の時に

お世話になった人からパイを増やせずにいました。

 

また、

一人でやってるのではなく、

前の会社から経理と生産のプロを1人ずつ

ヘッドハントしたため、

給料も払わなければなりませんでした。

 

 

しかし、

父はとても楽しそうでした。

 

自分の天職は手袋を作ることと全うしているし、

経営に関するノウハウは

前の会社で学んでいるし、

あとは上を向いてやっていくだけだと

意気込んでいました。

 

特に一番印象的だったのは、

「お金大丈夫?」

と自分が聞いても、

一言も弱音を吐いたことがないことです。

 

母は傍らで

「バイトしまくっているお前のほうが稼ぎ多いかもよ」

と冷やかしていましたが、

実際に父が弱音を吐いたことはありませんでした。

 

そして、もう一つ印象的だったのは

父と母が前より仲良くなりました。

 

以前は会社で海外にも行っていて、

帰ってくるのも夜遅かったですが、

起業してからは

ある程度の家事を済ませてから仕事場に向かい、

車や自転車を運転できない母の代わりに

買い物をしてから帰るという

なんとも自由な勤務体系でした。

 

もちろん家でも仕事はしていましたが、

間違いなく前の会社で働いている時よりも

家族に貢献する時間は増えたと思います。

 

現在でも父は事業を続けています。

手袋はもちろん冬場が繁忙期で、

暖冬と呼ばれた今年は売れ行きが立たないのではないかと

心配していました。

 

しかし、

年末年始に帰省した時に

東京のセレクトショップから受注をもらい、

むしろ生産が追い付かないと

うれしい嘆きをしているほどで安心しました。

 

 

■起業するほうがワークライフバランスがとれる?

近年、専業主婦の方も起業する人が増えています。

 

私の父が家族に割く時間が増えたように、

会社の就業時間に縛られて働くよりも、

起業したほうが自由な時間が増えるということです。

 

もちろん、

責任は大きく異なります。

 

それは近くで見ていて顕著でした(笑)

 

また就職活動をしていた自分にとっても

とても参考になりました。

 

どの規模の会社に入れば、

自分が生涯でどの地位に立ち、

どんなことを学ぶことができ、

どんな生活を送ることができるのか。

 

キャリアプランを必死に模索している自分にとっては

一番身近で一番参考にしたロールモデルでした。

 

 

■企業に働く人だけではなく、起業家にも会うこと

普通の家庭では、

まず起業家に会うことはないと思います。

 

私の場合は本当にたまたま

そういう人が身内にいただけでした。

 

しかし、

就職活動で人の働き方を考える時には

必ず起業や経営を行っている人に会って

いろんな意見や知識を学ぶべきだと思います。

 

どうしても就職活動では

大手の企業に目が行きがちで

中小企業でもほんと一部の人間としか

会話する機会がありません。

 

学生は自由です。

若いうちはある程度何をやっても許されます。

 

多くの人に出会い、

いろんなことを学ぶ。

起業家はさまざまな失敗を繰り返し

今に至ります。

 

彼らの声や生き様を

学ぶことも就職活動や生き方を学ぶことにおいては

重要なのではと思います。